シーア派 台頭するイスラーム少数派

シーア派 台頭するイスラーム少数派

シーア派の発生から現代までをたどり、空間的にはアラブから南アジアにかけた地域を概観する。各国に散らばったシーア派がどのような経緯を経て現在に至ったかを、後半、イランのイスラーム革命や、イラクのフサイン政権崩壊の及ぼした影響などとともに解説。

桜井 啓子

イスラーム教の二大宗派の一つだが、信者は全体の一割に過ぎないシーア派。しかし、イラン、イラク、レバノンなどでは多数を占め、挑発的な指導層や武装組織が力を誇示し、テロリズムの温床とさえ見られている。政教一致や民兵勢力といった特異な面が注目されるが、その実態とはいかなるものなのか。彼らの起源から、多数派のスンナ派と異なり、政治志向の強い宗教指導者が君臨するシステムを解明し、その実像を伝える。

用語や人名

フサイン
第四代カリフ・アリーとムハンマドの娘ファーティマの間に生まれた息子で、第三代イマーム。カルバラーの戦いで殉教したフサインの悲劇はシーア派によって宗教行事化され、今でも信徒による大がかりな追悼行進が行わる。男たちは我が身を鞭打ち、あるいは鎖で背中を打つなどして、フサインの苦難を追体験する(自傷儀礼)。
アーシューラー
フサインの殉教日。追悼行進は、フサインが絶命したアーシュラーの正午にクライマックスを迎える。
シーア派とスンナ派
第四代カリフ、アリーが死んだとき、シリア総督ムアーウィヤはウマイヤ朝を開き、初代カリフに就任。これを認めることができなかったのがシーア派で、アリー同様ウマイヤ朝のカリフも認めたスンナ派は、預言者の血を引くことやクルアーンの奥義を理解するなど特別な資質を有することを後継者の条件とはみなさなかった。クルアーンを理解するために必要なことは預言者の言行(スンナ)の中に見出せると、その収集に努めたことからスンナ派と呼ばれるようになった。
カリフ
ムハンマド没後に後継者、代理人として選出された人物。アリーが第四代カリフに選出された際、ハーシム家(ムハンマドやアリーの家系)と敵対していたウマイヤ家の族長ムアーウィヤがそれを認めず「臣従の誓い(バイア)」を拒んだ。やむなく調停に持ちこんだアリーの妥協に失望して、アリーと袂を分かったのがハワーリジュ派。彼らの手に落ち、クーファで絶命したアリーの死をもって、正統カリフ時代は幕を閉じる。

メモ

  • シーア派にとっての悲劇は、カルバラーの戦いで殉教したフサイン(預言者ムハンマドの孫)の悲劇とともにはじまり、12代で途絶えたイマーム(共同体の最高指導者)不在の長期化が、その後数々の矛盾と分派を引き起こした。
  • イスラーム革命の成功によりホメイニーがイランで執ったのは、「イスラーム法学者の統治」という政教一致の政策だった。それ自体はムハンマド以来のイスラームの基本的な考え方だが、これがまた数々の矛盾を生み、最終的には行き詰まる。
  • 1979年12月、ソ連のアフガニスタン侵攻に抵抗したイスラームは、その戦いを、異教徒から祖国を守るための「聖戦(ジハード)」と位置づけ、自らを「イスラームの戦士(ムジャーヒディーン)」と呼んだ。
  • 近代になり、少数派だったシーア派の政治活動が活発になるに従って、それまで各地で政権を握っていたスンナ派の反感が強まり、両者の対立は深刻化していった。シーア派を異端と見なす教育を受けた武装勢力ターリバーンの登場は、その対立をさらに激化させる。
  • ホメイニーの革命に影響を受けた各地のシーア派だったが、さまざまな理由からイランとは距離を置かざるを得なくなり、いまではシーア派という一つの集団形成から離れて、それぞれが各国固有の問題解決にあたっている。

書誌情報

中央公論新社 2006/10発行

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